NENOiのブログ

ここに書いてある事は店主が感じた事、考えた事を記していますが大抵のことは既に先達が書いています

Bookstore AID 特典本に寄稿した文章を公開します。

f:id:NENOi:20210316123935j:plain

bookstoreAID


こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。
今日はタイトルの通りなのですが昨年ご支援いただきました『Bookstore AID』の特典となる本に寄稿いたしました文章を公開したいと思います。
もともとは、この特典本がそのプランを選ばれた支援者の皆様に届いてから公開しようと思っていたのですが、作業などに問題が出て、製作が遅れてしまっているそうです。そこで事務局の方に確認いたしまして、先に公開しても大丈夫と確認が取れましたので下記に文章を掲載いたします。ご支援本当にありがとうございました。

また、特典本が付いてくるプランにてご支援くださいました皆様、事務局の方からもご連絡はあったかと思いますが、今しばらくどうかお待ちいだけましたら幸いです。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この度はBookstore AIDにご支援いただき本当にありがとうございます。

ご支援の際に頂戴したメッセージの一つ一つがとてもありがたく、また励みになりました。
当店は東京の早稲田にお店を構えておりますが募集期間中は東京都の休業要請に従い、店を閉めておりました。
その間、暇ということは全然なかったのですが皆様のメッセージを拝読したりしながら改めて本屋の存在意義や本について思いを巡らせていました。

とりわけ改めて考えると謎だ?となっていたのが「『本』とは一体何か?」でした
『私の名前は「本」』(フィルムアート社)という本の歴史を紹介する本ではまず「息」から始まり、その後文字、粘土板と時代は変遷していきます。背表紙や今でいう書籍の形になったものはそれからかなり経った中盤から後半に差し掛かるあたりのパートで登場していました。
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』(早川書房)では本が焼かれ存在しなくなっても焚き火を囲んだ場で新しいフォークロワとして詩や物語が語られていく様が示唆されていたように記憶しています。とすると「本」とはその内容、中身なのかとも思えてきます。
しかしながらネット記事などをプリントアウトして読んでみてもそれらの束を本と思うことはありません。
 では中身ではなく外観や形が「本」を「本」たらしめているのでしょうか?
例えば、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)の装丁の美しさはどうでしょう。南インドの出版社タラブックスの美しい本たち。それらは本を開き中を読む前にすでに私たちに高揚感をもたらします。
 高橋香緒理の『ぱたぱた絵本 くまさんどこかな』(河出書房新社)などは名前の通り、パタパタと開いて読み進める絵本で最後には一枚の平たい紙になってしまいます。多和田葉子の詩集『まだ未来』(ゆめある舎)などは箱に入れられ活版で印刷された詩の一編毎に赤い和紙に包まれており、バラバラな状態のものが収められています。
 それでも私たちはそれらを「本には見えないけれど、やっぱりこれも本」と認識しています。
 また聖書などでしばしば見られるような豪奢に装丁された書籍に至っては遠くにあってガラスショーケースの向こう側で展示されていたとしてもそれらを本と認識するだけでなく、その存在に神々しさすら感じることすらあります。
 他方、革張りされた洋書などを「かっこいいなぁ」と思いつつもそれらがおしゃれ空間のオブジェとして置かれているだけ、時には中身を空っぽにしてそれっぽくしているだけのものなどを見かけた時はそれがどんなに製本された本のように見えたとしても「これは本のようなものではあるが、決して本ではない」とほとんどの方が思うのではないでしょうか?
とすると本は「内容」だけでも「外側」だけでも十分でないが、逆に言うと「内容がある」「ある程度丁寧に整えられた装丁」とその双方が揃っている状態のものはほぼなんでも「本」なのかなという気がしてきました。だから手製本のガタガタとなっているものでも、巻物状のものでも読まれる内容が存在し、(それなりにでも)整えられていたらそれはもう「本」なのではないかと。
 ところで外観の事を考えていた時に「美しさ」についても少し言及しましたが、実は私には「美しい本」という言葉を耳にした時に浮かんでくる本があります。
それは10年位前、まだ私が通勤電車に揺られていた頃に見かけた本でした。ある朝、満員というほどではないものの、それなりに混雑してきた電車にランドセルを背負った子供が大人たちに負けじとグイグイと乗り込んできて、おもむろに本を取り出し読み始めました。
その本は小学館の『ドラえもんひみつ道具カタログ』だった(と思う)のですが、表紙カバーはもうすでになく何度も何度も読まれてきたことを感じさせるボロボロさでした。テープを何度も貼られた跡が、壊れても破れてもその本が読まれ続けてきた事を教えてくれました。
その本を目にした時「なんて貴く美しい本なのだろう!」と強く思ったのを今でもよく覚えています(その本は浦沢直樹の『MASTERキートン』(小学館)の「穏やかな死」の回に出てくる老人のようにも見えました。これは蛇足)。
 読まれる内容を記載したページはすでに破れたりして一部がなく、装丁は崩壊寸前。先に挙げた「本ってこういうものでは」からすると外れかけているようにも思います。それでもやはりこれは「本」であると、もっといえば「いつか本が辿りつくべき姿」と思ったりします。
 当店は古本も扱っておりますが、そんな状態の本が店頭にあってもよほどの希少本でもない限り売り物にならないと思います。それでも、その時感じた「美しさ」は全く覆ることなく私の中に存在しています。
 そこにあるのは読み手の姿であり、またかつて多くの人が何度も読まれたのだろうと感じさせる余韻、気配といったものが美しさの源泉なのだろうかと思ったりもします
そういえばお店にある古本も、関連する書評の切り抜きやレシートなどが挟まっていることがありますが、前の持ち主の個人情報の記載がない限りそのままにして並べています。それもまた、私がそれらに余韻を感じているからなのかもしれないと思い至りました。
 とすると「本」というものは中身も外観ももちろん要素にはなるのだけれども、それ以上に読み手の存在、或いは気配。そういったものが何よりも「本」を「本」たらしめるのかもしれないと思えてきます。
 そういえば、映画『ショーシャンクの空に』(原作スティーブン・キング刑務所のリタ・ヘイワース/ゴールデンボーイ』新潮社 収録)に出てくる図書室はほとんど裏帳簿の隠し場所としてしか機能しておらず、そこに配架されている本たちは段々と「本」という記号になり本ではなくなっているようにも感じました。
 記号ではない、読み手のある「本」。それは瞬間的なものから長く読まれ続けるものまで様々あると思いますが、当店としては一人の人にでもいいので、読まれ愛される本をこれからも取り扱っていきたいと思う次第です。

 最後に余談ですが、『ショーシャンクの空に』といえば作中にでてくる図書室を管理していたブルックスのエピソードが印象に残っているのですが、彼やルシア・ベルリンの『さあ土曜日だ』(『掃除婦のための手引き書』講談社 収録)に出てくる刑務所の囚人たちの創作教室のエピソードなどを読むと「本」や「創作」は役に立つのか?というテーマが頭をかすめてきたりします(そういう話になると日本橋ヨヲコの『極東学園天国』(講談社)が頭に浮かびます)。
 その他にも、「本」が作られ書店に入荷し読者の手に渡るまでにとても多くの人たちが関わります。作家さんに編集者さん、校正さん、デザイナーさん、製本屋さん、印刷所さん、営業さんに書店さん等々。そんなプロセスの中でどの瞬間が一番「本」なんだろう?という事についてもぼんやりと思っていたりしました。思い浮かぶ本は『本を贈る』(三輪社)、内沼晋太郎『これからの本屋読本』(NHK出版)などでしたが、それはまたどこか別の機会があれば書いてみたいと思います。

 今回、意識的に本の題名を多く載せるよう心がけましたが、一冊でも興味を持っていただけるような本があれば嬉しいなと思いつつ筆を置かせていただきます。
 この度はご支援くださり、本当にありがとうございました。機会があればぜひお店へもお立ち寄りくださいましたら幸いです。