NENOiのブログ

ここに書いてある事は店主が感じた事、考えた事を記していますが大抵のことは既に先達が書いています

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」を巡る個人的な小冒険

f:id:NENOi:20210826151157j:plain

こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。
先日機会があって『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』のゲラを読ませていただきました(貴重な機会をありがとうございます)。

『目の見えない白鳥さんさんとアートを見にいく』はタイトルのまんまですが全盲の美術鑑賞者である白鳥さんと作者の川内有緒さんとそのご友人たちと日本のあちこちで絵画や仏像、家やオブジェなどの現代美術を鑑賞しにいくノンフィクションです。

目が見えない人がどうやって鑑賞するのか?という多くの人が抱くであろう疑問とともに著者である川内さんもスタートし、目の見えない「かわいそうな人」白鳥さんといったラベルも気持ちいいほど簡単に剥がされ、読者もまた絵を通じてお互いを感じ合うやり取りに紛れ込んでその場にいるような感覚になります。
単なる美術鑑賞かくあるべしという枠を超えた、人のあり方にまで届くような本でした。


個人的な話なのですが、店主は読みながら自分に起きた一つの出来事を唐突に思い出してました。それはもう二十年位前のことで時期とか展示とか多少あやふやなのですがおそらく世田谷美術館でやっていた「ジョアン・ミロ展」を観ていた時(まだ二十代前半!フレッシュ!)、日経新聞を小脇に抱え、少しくたびれた四十代サラリーマンといった風体の男性がすぐそばで絵を見ていました。
そのおじさんは一人で絵の目の前に立ってはぶつくさと何事か呟いてて、そのせいか、いつしか彼の周りには誰もいなくなっていました。それはまるで彼の周りに見えない壁が作られてしまっていたかのようでした。
平日ということもあり、空いていたのであまりに気にしていなかったのですが、気づいたらとある一枚の絵の前でそのおじさんと一緒になってしまいました。
おじさんは「わからない、わからないなぁ。」と呟いた後、急に「これのどこが踊り子なんですか?」こちら向いて話しかけてきました。
「あのーもしかして私に聞いてます?」
とその時確かに思ったのも覚えているのですが、でも自分でもびっくりするくらいするりと
「感じればいいじゃないですか?」 
と返事をしていました。
そしたらそのおじさんは 「なるほど、感じればいいのか。ふーんなるほどね。」としきりに首を振りながら去っていきました。
その時店主の中でポンと何かが浮かび上がってきました。

マルセル・デュシャンは便器を置いて「泉」としました。
これは多くの人には「わからない」ものであったように思います。しかしデュシャンにとってその便器こそが「泉」だったのではないでしょうか!(すくなくともその瞬間においては)。
だから何かの拍子にデュシャンが発信した電波を受信するようにチャンネルが合えば鑑賞者もまた「確かに、これは泉だわ」となるのではないだろうか?という事でした。

もちろん、これはマニエリスム様式のルネサンス美術の解釈、分析には向かないだろうし、タイトルのない作品も沢山ある。けれど、作品から出てくるアート電波を受信するという感覚は割と楽しい試みなんじゃないだろうか?

 

とその時、思っていたのですが、本書ではまさに作品を前にしてその場にいる人たちが受信した内容を踏まえ「どう思う?」と意見を自由に出しあっているのです。こうじゃない?こんな風にも見えるよね。相手と真逆の意見があっても別に違う事を否定せずに、キャッチボールが行われ、いつしか白鳥さんもその投げたボールを受け止め鑑賞が始まります。
白鳥さんは対象が絵だったとしてもその絵のある空間、過程を含めて鑑賞します。その鑑賞のありかたは実は絵とか本とかに限らず、人に対しても言えることなのではないかと感じます。

目が見えている人が作品をちゃんと見れているかというとそんなわけではない事を気づかせてくれたり、社会的な問題を含んだ作品が登場したり、アートは向き合ってくれた鑑賞者に問いかけを送り、それが時として新しい世界の広がりをもたらしてくれる。そんな当たり前で素敵な事を改めて教えてくれました。

冒頭にバスに乗るシーンがあったせいなのか、白鳥さんとも川内さんともお会いした事はないのに既に二、三回は一緒に美術館に行く旅をした事があるような読後感に包まれました。

またしても個人的なお話しで恐縮ですが、本書には佐久間裕美子さんが登場するのですが、まさにその箇所を読んでいた日に当店に佐久間さんがお見えになるなど不思議なシンクロが起きたりもして忘れがたいタイトルになりました。

ところで日経新聞を小脇に抱えたおじさんの「わからないことを隠し立てもせずにわからないことして誰かに聞いた」という行為は実のところ尊敬に値する行為だと思うのだけどどうでしょうか?(聞いた相手はともかくとして)。