NENOiのブログ

ここに書いてある事は店主が感じた事、考えた事を記していますが大抵のことは既に先達が書いています

PCR検査を受けた話

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こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。
現在(2021年5月14日現在)当店は休業中です。昨年に続き今年も緊急事態宣言発令→延長となり学びの重要さを実感する日々です。

今年の休業には4月25日から始まっていますが、突然の休業に気が抜けたのか4月30日に38度まで熱が出てPCR検査を受ける事になりました。ただ人によって全然状況も違うようなので記録という意味でもその時のことを書いておこうと思います。

 

1. どんな症状だった?

 数日前から喉がなんだかイガイガするなぁと床についたもののなんだかうまく寝付けず、早朝にベッドを抜け出し、寒気を覚えたので体温を測ったところ38度。。。
味覚もあり、熱の割にそこまでしんどい感じがなかったので、普段なら1日くらいは様子を見ていたのですがこのコロナ禍に加えて、その日は金曜日。ということでPCR検査も含めて対応しているところを探したところ過去に行ったことがあるクリニックのHPに検査している事が記載されているのを発見。

2. 案内の通り電話したんだけど。。。

HPに書かれていた発熱外来用の電話予約受付開始時間に電話しても誰も出ない。。。。少し調べてみるとこのクリニック、金曜日は他の曜日と診療時間が違ってて午後からだったので多分それで電話に出なかったのではと推察。(だったらHPにも金曜日は午後からとか書いておいて欲しいよう)
午後改めて電話したら無事に電話も繋がり18時に来てくれという案内をいただく。ただ「5分前とかじゃなくて6時きっかりに来てくれ」とさらっと無茶な要求まで付いてきた

3. 診察どんな感じだった?

まず自宅で体温を測ってから病院に行き、病院に着いたら早速パーテーションで区切られた奥の方に行くように指示され、そこでしばらく待機。透明な仕切りを挟んでお医者さんが登場し、問診(この時に自宅で測った体温も報告する。診察時は少し下がって37度5分程度でした)のみでPCR検査をする事に。時節柄してもらった方がありがたいけど、そんな適当なやりとりで薬を出されるのもねぇという気持ちになったりしました。

4. PCR検査はどんな感じだった?

 PCR検査は容器を渡されそこに唾液を入れ、検査に回すというものでした。店主は喉をやられていたので検査の2時間前から水も含めて飲食禁止だった事が地味にしんどかったです。喉が常に乾いた状態だったので唾液を規定の量まで出すのが大変でした。

結果は翌日にわかるとの事で「17時から19時までの間に連絡します」と言った後に「陽性だったら17時から20時までの間に連絡します」と言い直しててちょっと変だなと思ったけれどそのまま終了。お金も離れたところにトレーを置かれてそこに置くとかそんな感じでコロナだった事を想定したら仕方ないとは思いつつも「人ではなく腫れ物を扱う」感じを受けて悲しい気持ちにはなりました。
その日はそのまま帰宅。幸い家族はこの日から不在になっていたのでちょっと安心して自宅で自主隔離をしていました。

5. その後(結果は陰性でした)

翌日は37度5分から36度5分をあたりを行ったり来たりで喉の痛みは引き続きあるものの、前日よりもしんどさはなく良くなっている感じでした。とはいえ「コロナは急激に悪化がする」と聞いていたので結果が出るまではドキドキしていました。

 ただ時間になっても連絡が来ない。。。19時、20時まで待っても来ない。。。「PCR検査 結果」などでググると「連絡があるのは陽性の場合だけ」という人も結構いるみたいで、そういう事かと思おうともしたのですが「検査しておいて結果教えないのは変でしょ?」という事で再びHPを確認しメールをする事に(その前に電話したけど誰も出ず。。。)、そのメールを見たのか20時半過ぎにようやく電話で連絡あり「検査したら陽性の疑いが出て再検査に回ってもう一回調べたら陰性でした」という事で陰性だったのですが心なしか「陽性になりかけたけど俺のおかげで陰性になったんだぞ」的なトーンがあった気がして「なんだこれ、、、」となっていたのですが最後に「何か変な事があったら発熱相談センターへ」と言われたので「変な事って何?(特にコロナだと疑えるような変なこととは?)」と聞いてみたら「それは自分で判断してください」って言われてしばし呆然。。。

喉は結構しばらく後までイガイガしてて声もなかなか戻らずという状況でしたらとりあえず元気に過ごしています。

 

家の近所にいい掛かりつけのお医者さんが欲しいと改めて思いました。

 

Bookstore AID 特典本に寄稿した文章を公開します。

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bookstoreAID


こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。
今日はタイトルの通りなのですが昨年ご支援いただきました『Bookstore AID』の特典となる本に寄稿いたしました文章を公開したいと思います。
もともとは、この特典本がそのプランを選ばれた支援者の皆様に届いてから公開しようと思っていたのですが、作業などに問題が出て、製作が遅れてしまっているそうです。そこで事務局の方に確認いたしまして、先に公開しても大丈夫と確認が取れましたので下記に文章を掲載いたします。ご支援本当にありがとうございました。

また、特典本が付いてくるプランにてご支援くださいました皆様、事務局の方からもご連絡はあったかと思いますが、今しばらくどうかお待ちいだけましたら幸いです。 

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この度はBookstore AIDにご支援いただき本当にありがとうございます。

ご支援の際に頂戴したメッセージの一つ一つがとてもありがたく、また励みになりました。
当店は東京の早稲田にお店を構えておりますが募集期間中は東京都の休業要請に従い、店を閉めておりました。
その間、暇ということは全然なかったのですが皆様のメッセージを拝読したりしながら改めて本屋の存在意義や本について思いを巡らせていました。

とりわけ改めて考えると謎だ?となっていたのが「『本』とは一体何か?」でした
『私の名前は「本」』(フィルムアート社)という本の歴史を紹介する本ではまず「息」から始まり、その後文字、粘土板と時代は変遷していきます。背表紙や今でいう書籍の形になったものはそれからかなり経った中盤から後半に差し掛かるあたりのパートで登場していました。
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』(早川書房)では本が焼かれ存在しなくなっても焚き火を囲んだ場で新しいフォークロワとして詩や物語が語られていく様が示唆されていたように記憶しています。とすると「本」とはその内容、中身なのかとも思えてきます。
しかしながらネット記事などをプリントアウトして読んでみてもそれらの束を本と思うことはありません。
 では中身ではなく外観や形が「本」を「本」たらしめているのでしょうか?
例えば、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)の装丁の美しさはどうでしょう。南インドの出版社タラブックスの美しい本たち。それらは本を開き中を読む前にすでに私たちに高揚感をもたらします。
 高橋香緒理の『ぱたぱた絵本 くまさんどこかな』(河出書房新社)などは名前の通り、パタパタと開いて読み進める絵本で最後には一枚の平たい紙になってしまいます。多和田葉子の詩集『まだ未来』(ゆめある舎)などは箱に入れられ活版で印刷された詩の一編毎に赤い和紙に包まれており、バラバラな状態のものが収められています。
 それでも私たちはそれらを「本には見えないけれど、やっぱりこれも本」と認識しています。
 また聖書などでしばしば見られるような豪奢に装丁された書籍に至っては遠くにあってガラスショーケースの向こう側で展示されていたとしてもそれらを本と認識するだけでなく、その存在に神々しさすら感じることすらあります。
 他方、革張りされた洋書などを「かっこいいなぁ」と思いつつもそれらがおしゃれ空間のオブジェとして置かれているだけ、時には中身を空っぽにしてそれっぽくしているだけのものなどを見かけた時はそれがどんなに製本された本のように見えたとしても「これは本のようなものではあるが、決して本ではない」とほとんどの方が思うのではないでしょうか?
とすると本は「内容」だけでも「外側」だけでも十分でないが、逆に言うと「内容がある」「ある程度丁寧に整えられた装丁」とその双方が揃っている状態のものはほぼなんでも「本」なのかなという気がしてきました。だから手製本のガタガタとなっているものでも、巻物状のものでも読まれる内容が存在し、(それなりにでも)整えられていたらそれはもう「本」なのではないかと。
 ところで外観の事を考えていた時に「美しさ」についても少し言及しましたが、実は私には「美しい本」という言葉を耳にした時に浮かんでくる本があります。
それは10年位前、まだ私が通勤電車に揺られていた頃に見かけた本でした。ある朝、満員というほどではないものの、それなりに混雑してきた電車にランドセルを背負った子供が大人たちに負けじとグイグイと乗り込んできて、おもむろに本を取り出し読み始めました。
その本は小学館の『ドラえもんひみつ道具カタログ』だった(と思う)のですが、表紙カバーはもうすでになく何度も何度も読まれてきたことを感じさせるボロボロさでした。テープを何度も貼られた跡が、壊れても破れてもその本が読まれ続けてきた事を教えてくれました。
その本を目にした時「なんて貴く美しい本なのだろう!」と強く思ったのを今でもよく覚えています(その本は浦沢直樹の『MASTERキートン』(小学館)の「穏やかな死」の回に出てくる老人のようにも見えました。これは蛇足)。
 読まれる内容を記載したページはすでに破れたりして一部がなく、装丁は崩壊寸前。先に挙げた「本ってこういうものでは」からすると外れかけているようにも思います。それでもやはりこれは「本」であると、もっといえば「いつか本が辿りつくべき姿」と思ったりします。
 当店は古本も扱っておりますが、そんな状態の本が店頭にあってもよほどの希少本でもない限り売り物にならないと思います。それでも、その時感じた「美しさ」は全く覆ることなく私の中に存在しています。
 そこにあるのは読み手の姿であり、またかつて多くの人が何度も読まれたのだろうと感じさせる余韻、気配といったものが美しさの源泉なのだろうかと思ったりもします
そういえばお店にある古本も、関連する書評の切り抜きやレシートなどが挟まっていることがありますが、前の持ち主の個人情報の記載がない限りそのままにして並べています。それもまた、私がそれらに余韻を感じているからなのかもしれないと思い至りました。
 とすると「本」というものは中身も外観ももちろん要素にはなるのだけれども、それ以上に読み手の存在、或いは気配。そういったものが何よりも「本」を「本」たらしめるのかもしれないと思えてきます。
 そういえば、映画『ショーシャンクの空に』(原作スティーブン・キング刑務所のリタ・ヘイワース/ゴールデンボーイ』新潮社 収録)に出てくる図書室はほとんど裏帳簿の隠し場所としてしか機能しておらず、そこに配架されている本たちは段々と「本」という記号になり本ではなくなっているようにも感じました。
 記号ではない、読み手のある「本」。それは瞬間的なものから長く読まれ続けるものまで様々あると思いますが、当店としては一人の人にでもいいので、読まれ愛される本をこれからも取り扱っていきたいと思う次第です。

 最後に余談ですが、『ショーシャンクの空に』といえば作中にでてくる図書室を管理していたブルックスのエピソードが印象に残っているのですが、彼やルシア・ベルリンの『さあ土曜日だ』(『掃除婦のための手引き書』講談社 収録)に出てくる刑務所の囚人たちの創作教室のエピソードなどを読むと「本」や「創作」は役に立つのか?というテーマが頭をかすめてきたりします(そういう話になると日本橋ヨヲコの『極東学園天国』(講談社)が頭に浮かびます)。
 その他にも、「本」が作られ書店に入荷し読者の手に渡るまでにとても多くの人たちが関わります。作家さんに編集者さん、校正さん、デザイナーさん、製本屋さん、印刷所さん、営業さんに書店さん等々。そんなプロセスの中でどの瞬間が一番「本」なんだろう?という事についてもぼんやりと思っていたりしました。思い浮かぶ本は『本を贈る』(三輪社)、内沼晋太郎『これからの本屋読本』(NHK出版)などでしたが、それはまたどこか別の機会があれば書いてみたいと思います。

 今回、意識的に本の題名を多く載せるよう心がけましたが、一冊でも興味を持っていただけるような本があれば嬉しいなと思いつつ筆を置かせていただきます。
 この度はご支援くださり、本当にありがとうございました。機会があればぜひお店へもお立ち寄りくださいましたら幸いです。

「坊や」にガンダムをみせてみました。

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こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。
先日どこで覚えててきたのか4歳になる店主の子どもが「ガンダムガンダム」と騒ぎ始めたので「機動戦士ガンダム」を見せてみる事にしました。
そしたら思いの外多くの発見があったのでその事について書いてみる事にしました。

 

機動戦士ガンダム」と子ども 

当初は映像的にも映画三部作の方が綺麗だからそちらを見せようと思っていたのですが、毎日何回も「ガンダム観たい、観たい!」と騒ぐようになってしまったので、劇場版三部作のうち一作目だけを見せて、その後はTV番組版を一日一話と区切って見せる事にしました(Netflixさんありがとう!)。

観せながら「4歳の子どもにこの話わかるんかいな?」って当初は疑問視していたのですが子どもなりに楽しんでいるようでした。
そんな折に子どもが言った二つセリフに店主はガガーン!となりました。それは

「この白い仮面してる赤い人かっこいい」
「目が一つのロボットは悪いんだよ」

の二つでした。

白い仮面してる赤い人はシャアという名前で主人公ライバルに当たるキャラクターです。店主も小さい頃シャアカッコいいなと思いましたし、その後も多く放送された沢山のガンダムシリーズの中でも屈指の人気を誇っています。
また、主人公達の属する地球連邦軍のロボット(モビルスーツ)には単眼のロボット(モビルスーツ)は出てこず、主人公達と対立関係にあるジオン公国のロボットは全て単眼になっています(ジオンが悪いのではなくスペースノイドを迫害してきた地球連邦政府こそみたいな議論はまたの機会に)。
これって「子ども」が「子どもなりに理解している」のではなく「製作者」が「子ども達が少しでも理解しやすいように作品をデザインをしている」って事ですよね。 
そのようにデザインされているからロボット(モビルスーツ)が戦うシーン以外でも割と集中したまま鑑賞しているし、セリフなんかわからなくても響きが楽しいのか「ガルマ!ガルマ!」とか声に出してはしゃいだりしている(なぜかしてたんです。後「ギャン」)と舌を巻くような気持ちでした。

ちょうど同時期に子どもが観ていた(今もやっている)某仮面ヒーロー物がどうにもノレなくて、店主がしっかり観てないせいかなとも思ったのですが、子どもも仮面ヒーロー同士が戦っている時は食いついているのですが、その他のパートは見向きもしない。多分ストーリーも全然わかってない感じです(店主もしっかり観ていないのもありますが、誰だ誰やらみたいな感じです)。

機動戦士ガンダム」と言葉 

実は上記の仮面ヒーロー物を子どもに見せている時からずっと嫌だなぁと思っていたことがありました。
それは言葉遣い。
一番顕著なのは他人をほぼ全ての登場人物が「お前」と呼んでいる事。
これ実はガンダムでも頻出です。けれど総じて
ガンダムの方が今やってる仮面ヒーロー物より言葉遣いが綺麗」
 と感じました。
もちろん今の時代に「アムロ、発進よろしくて?」のように「よろしくて」なんてピンと来ないかもしれませんが、「セイラさん、おだてないでください」と主人公のアムロは他者に「さん」付け(しないのは幼馴染のフラウボウくらい?)だったり。敵、味方問わず話し方に品があるように感じます。 
どちらも「お前」が頻出しているのにどうしてここまで言葉遣いに対する印象が違うのか?と考えていたのですがこれはひとえに「語彙」の数が違うのではないかと思い至りました。
「おだてないでください」「こいつ、こざかしいと思う」「僕はあの人に勝ちたい」「こういうときは臆病なくらいがちょうどいいのよね」「認めたくないものだな…自分自身の若さ故の過ちというものを」「謀ったな!シャア」 
ちょっと思いつくだけでも印象的なセリフがたくさんで(ガンダムの場合、ファンの方が何度も口にするからというのもありますが)、「謀った」「こざかしい」「過ち」など多くの言葉が飛び交っています。
それだけでなく性格や、ポジション、年齢などに応じて言葉の使い方がすごく変わっていて一回しか登場しない、空き家となっていたアムロの地球の家で酒盛りしている連邦軍兵士達の中でさえも上官とその他でも言葉遣いが違っていたりと、言葉だけでも関係性が重層的に見えるような印象を持ちました。
他方、今の仮面ヒーロー物は「お前、ドラァ!倒す!許さない!」という「!」がつくようなセリフばかり目につく印象です(これは店主がしっかり鑑賞していないというのもあります)。
これは仮面ヒーロー物が問題というよりも『機動戦士ガンダム』が放送されていた頃の公共の電波に乗って流される映像に対する言葉遣いへの姿勢と現状との差なのではないかと思います。

当時が丁寧というよりもその頃に比べると総じて語彙が減って、セリフとしての言葉が「雑」になっていっているのではないかと感じたりします。 

機動戦士ガンダム」のリアル

子どもがガンダムガンダムと騒いだのは実は昨年の事でそこからほぼ毎日1話を見せていたのですが、最終決戦となる残り3話くらいからあまり「ガンダム観たい」と騒がなくなりました。
理由は単純に「怖い」から。
実際に終盤になるにつれ名前のあるキャラクターかどうかは関係なく、戦闘は過酷になり死ぬ人がものすごく増えていきます。
その過酷さ表現の中に「少年兵」も登場します。
名もなき少年兵は「お母さん」と叫びながらロボット(モビルスーツ)の中で絶叫しなから死んでいきます。
もちろん、アムロ達主人公が乗る戦艦(ホワイトベース)の主要な乗組員のほとんどが10代で「寒い時代だとは思わんか?」と言われしまうような状況なので既にとんでもないのですが、ただアムロ達は鑑賞者とあまり変わらない年齢の子供達という、共感を喚起させるような効果も合わせて期待されて設定されているのとは異なり、先の名もなき少年兵はただただ戦場の悲惨さの演出として登場しているよう思います。
ガンダムって1979年に放送されていたので正直今から観ると古かったり、ふとした場面でありえないような適当さがあったりもするのですが「戦う、戦争」という事に対してのひやりとするリアルさがあるよう思えます。
「塩が足りなくなる」エピソードとか子どもに配給された食事を知らない大人が盗み食いしてしまう描写とか。
1955年の初代「ゴジラ」で「また疎開か、いやだなぁ」のセリフのような日常描写においてもゾッとするような。それに近い挿話が多く見られます。

そういう積み重ねがあるから簡単に死ぬという意味で死が軽いけど、そもそも人が死ぬことって全然軽くないよね。って部分があまり揺らがないように思いました。

 子どもは今でも時折思い出したように「ガンダムみたい」と言い出すのでZガンダムを観せ始めています。正直この作品暗いんだよなぁと思う一方で今度はどんな発見をしてくれるのか楽しみだったりもしています。

そして…(再び)猫を飼う

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こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。今日は猫のお話です。

ーーー

2019年の年末に8歳になる猫を引き取ることになった。知り合いがFACEBOOKで「バイク屋さんで飼われている猫がいるのだが、バイク屋さんが閉店する事になり飼えなくなったので里親を募集している」というのが第一報で、店主の子どももまだ小さいので子猫より大人の猫の方がいいだろうと思い、引き取る事にした。ミミという名前の猫でメスだと聞いていたが実際はオスだった。

店主は小学生の頃に生後3ヶ月の猫が我が家にやってきたのが猫との生活の始まりで、その子はその後20歳まで生きた(店主に一番懐いてて店主が帰宅する時だけ玄関までお出迎えしてくれた。事切れる時も店主の腕の中で静かに息絶えた)。
その子が18歳くらいの時に、家の軒下で生まれて2週間くらいの黒猫が鳴いているのを保護し、そのまま一緒に暮らすことになった。子猫の頃はよく泡吹いてひきつけを起こしていたけれど、10歳を超えた辺りからそれもなくなり、2021年1月現在も存命で、老猫らしく実家でよく寝ている。現在18歳くらい。

そんな訳でミミを引き取った時も10年くらいは一緒にいるのだろうと勝手に思っていた。
最初の2日は部屋の隅においた金麦の段ボールから出てこず、あわや金麦と名前が変わってしまいそうなほどだった。
それでも3日目からはトイレで用を足し、ご飯も食べるようになってきた。
まだまだ警戒心は強いものの、少しずつ我が家にも慣れてきて1ヶ月が経とうとした1月23日にミミは突然死んでしまった。

出かけようと家で支度をしていた店主の脇を駆け足で通り抜けた直後、「ギャッギャッ!」とすごい鳴き声と共にドスンと音がした。

驚いて振り向いたらそこには泡を吹いて横たわるミミの姿があった。あまりの事にパニックになったが、とにかく病院と思い、持ち上げてもぐにゃりとして反応のない猫をキャリーケースに入れ病院へと連れて行ったが心臓が既に止まっており、心臓マッサージを行うも蘇生は叶わなかった。

呆然となる暇もなく号泣の数日を過ごしていたが、それでも地球は回っていて、ショーマストゴーオンな訳で家には主を無くしたケージをそのままに毎日朝お店に行って夜に帰宅をするという日々を過ごしていた。

お店と自宅の間にとある民家があって、その家では猫の保護活動をされてるようで、通りに面した窓に何枚も「里親募集」の紹介ポスターを貼っており、窓辺には保護した猫さんたちなのか色々な猫が寛いでいた。

気づけば自転車で通勤する時はほぼ毎回そこを通る様になっていた。行きも帰りもどんな猫がいるのかな?どんな猫が今里親募集中なんだろうか?と少しずつ変わる募集情報を眺めていた(今思えば結構重度なペットロスだったのだと思う)。
行きも帰りもそこで猫を眺めては電話番号を控え(メールアドレスはなかった)、それでもそこから先の一歩がなかなか踏み出せずにいた。可愛いとかまた暮らしたい気持ちよりも「また突然死んでしまったらどうしよう?」という恐怖が強く、スマホに番号を打ち込んでは閉じるを何回か繰り返していた。
そんな悶々とした日々を過ごしていた6月半ば、知人から「千葉の方で自宅のガレージで子猫を保護した人がいる。その人の家では飼えないから飼い主になってくれる人を探している」と連絡があった。

子猫の写真を見たらもうダメだった。

けれど、新型コロナウィルス感染拡大の最中、千葉の方まで引き取りに行くのは難しいと諦めていた。

そしたら保護した方が車でこちらの家まで連れて来てくれる事になり、そこから事態はトントンと進み7月1日にその子猫は我が家にやってきた。
幸い、人懐っこい子で初日から膝の上で仰向けでぐーぐー寝る様な子だった(子猫はほんと熟睡します)。
一部に疥癬みたいな皮膚炎があったり、ギョウ虫がいたり、鼻水出まくりだったりしたけれど活発な子で家の中をちょこちょこと歩き回る恐れ知らずな子だった

その子が家に来ると出しっ放しだったケージも「子猫には大きすぎる」即座にしまわれるなど、どこか滞留していた家の空気がどんどん回りだした様な気がした。
それでも、1ヶ月がすぎるまでは帰宅したら死んでるんじゃないかと毎日ドキドキしながら家のドアを開けていた。
子猫はそんなこちらの気持ちなど一切気にかける事なく、セナという名前を付けられ、無邪気に紐という紐を噛みちぎり、日々家の中を駆け回り、避妊手術も無事に終え、生後10ヶ月位を迎えすっかり大きくなった。

セナを引き取って少ししてから、声かけてくれた知人が「ミミちゃんがいなくなった後のケージにお子さんが入っている写真を見かけて、これはまずいと思って声かけた」と話してくれて、ミミちゃんが繋いでくれた縁であったという事を知り、1ヶ月という期間の短さに関係なくその存在の深さを感じた。 

気づけばミミちゃんが死んでから1年が過ぎていた。

セナは今日も元気に紐で遊んでいる

 
今日のタイトルはこちらから。 

nenoi.jp

 
後、ミミちゃんがいなくなったとき一番心に響いたのはこちらの本でした。

nenoi.jp

はてな始めました

こんにちは早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。 
昨年始めたnoteですが思うところがあり辞める事にしこちらのはてなにて新たに始める事にしました。

nenoi.hatenablog.com

 まだ色々とわかってないですが、(メインページのヘッダーとか変えられるのか?とか)文章自体は正直noteよりストレスフリーで書けますね。
出来るだけ月に1回くらいは自由に何か書いていけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

なお、これ以前のエントリーはnoteに掲載したものを転記した記事になります。

リンク先などは少しいじりましたが内容はnoteの時のままです。  

note辞める事にしました。

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こんにちは早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。

タイトルの通りですが今この記事を書いているnoteというサービスの利用をやめる事にしました。フォローしたり、されたりとか楽しそう。あわよくば有料記事なんて未来も?なんて事を妄想して始めたnoteですが(という割には全然書いていないですが、、、)Twitterに書かせていただきました通り、noteをやめようと思います。

 

noteはサイトも大きいので運営側の方でも苦労はあると思うのですが、度々運営面でトラブルがあり、上記ツイートの「ホームレス観察日記」とでも言うような記事を「良いもの」として賞まで与えていた出来事が多分に影響しています。
こちらの件は、その後の対応も1.文章表現の変更 2.筆者のコメントの追加 とかしてましたが運営側のコメントとしては特に。。。という時点でここはユーザーを運営側が勝手に持ちあげても何かあった時にフォローをしてくれないサービスなのだという認識するようになりました。
また、気持ち悪すぎてリンクは貼りませんが「ホームレスを異文化として捉える事はおかしいのか?」「自分もホームレスになってもおかしくないと思っているから”むしろホームレスになったらどう快適に過ごすかシュミレーションまでしてるし、そのためにも知見を学びたい”」などと言いだす人が出てくるなど新たな差別への呼び水となっている事態にもスルーしている事がとても大きく、過去に差別に対してはできる限り声を上げるようにしたいと表明しました店主としてはこちらのサービスの利用をやめようと思うに至りました。

 

nenoi.hatenablog.com

 

移転先は決まり次第こちらに書いて少ししたからアカウントを削除しようと思いますが、何か良いサービスがありましたらご教示いただけましたら幸いです。

【追記】

という経緯でこちらのはてなブログなりました。

 

S社をそれを営業と呼ぶんだぜ?

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こんにちは、早稲田にあるカフェスペースのある本と雑貨のお店NENOiの店主です。

店主は間も無く3年を迎えるこのお店を始めるまで本屋はおろか出版業界にすら関わった事がありませんでした。その為、出版社が書店にする対応に驚きを禁じ得ない事柄がたくさんあります。
例えば、出版社さん、あるいは著者と相談して「イベントしましょう!」となった時の対応。

当店みたいな小規模な本屋は基本的に買切りで本を仕入れているのですが
「イベントの期間中(あるいは当日)本の販売をしたい。売り切れは避けたいけれど買切りで余ってしまうと困るから特別に委託でお願いしたい。」
というとなぜか取次(卸業者)を通して仕入れるよりもこちらに不利な条件で提示される。
自社の本に関連したイベントで折角の商機なのに条件を厳しくするって他業種経験者からすると「えっ?なんで?」ってなるのですけど…。しかも間に入ってた1社が減っているのに?!なんで?!(いまだに理解できない)

これよくある光景です。

そんな中、先日「なんだこれは?!」となった営業メールが来ました。以下いくつかぼかしたりしましたが概ね原文に忠実なメールの文面を記載します。

ー・ー・ー・ー・ー
NENOi 御中
突然のご連絡で失礼いたします。
出版社S社の営業部Mと申します。

この度はお問合せアドレスから大変失礼いたします。
近日、弊社より発売予定の『〇〇』の著者さんより、

本書を是非、貴店様にてご販売してほしい旨、お伝えするようにご依頼をいただきました。
本書は(以下書籍の内容説明)

著者本人のメッセージと写真、本書のご案内を添付させていただきます。
是非ともご展開をご検討ください。
尚、ご注文につきましてはお取引の取次店様へお願い申し上げます。この度は突然のご連絡にて大変失礼いたしました。
ー・ー・ー・ー・ー

著者のメッセージ(直筆画像をほぼそのまま記述しました)

ーーーメッセージここからーーー
はじめまして著者名です。
突然のお手紙失礼します。
某日に、私の初めての本「〇〇」がS社さんより出版されることなりました。
まだ行ったことはないんですが(ごめんなさい…!)
とても素敵な本屋さんだなぁと思い、
ぜひ、「〇〇」を置いて頂きたく
手紙を送らせてもらいました。
前向きにご検討を…よろしくお願いいたします。
コロナで大変な中ですが、何か私に、本屋さんを
盛りあげるお手伝いができるようでしたら
ぜひご協力させて下さい。

お忙しいところ失礼しました…!
よろしくお願いいたします!!

著者名(サイン)
ーーーメッセージここまでーーー

来店した事なく、SNSなどでもフォローされている様子もない著者から「素敵」と言われるのは隠しても隠しきれない魅力がある当店なのでそれはわかりますが「NENOiさんへ」などもなくあからさまに使い回しのきくメッセージ。著者の方が是非販売して欲しいと願った書店は何店舗くらいあるのでしょうね。
それでも!それでも初の著作である(らしい)本を著者は売りたいだろうと思うのです、その為に出来る事はなんでもしようと思ったのでしょう。だからこのメッセージについてはまだわからないでもないのです。

けどこのメール、営業は売りたいと思ってないよね?
直筆メッセージなどの素材もあるのに「著者が置いて欲しいと言ったから送りました」だけ。以下ここがダメだよこの営業さん!

・突然のご連絡?
 この出版社さん、今まで接点が全くなかったわけではなく、メールを送ってきた方とは別の方ですが営業の方ともやり取りした事あります。名刺も交換しています。
 それだけでなく今年の2月にこの出版社の書籍のイベントもやっています。イベントについてはこの出版社のHPでもしっかり告知されています。
(ちなみにその時にやり取りした営業さんは冒頭に書いたような条件提示に始まり、その後の対応もひどく、正直すごく嫌な思いをしました。)
社員20名規模、営業は5名くらいだと想像しますが、そこでの情報共有もないのか、そもそも当店みたいな小さいところは眼中にないのか「突然のご連絡で」送ってくる軽率さ。
著者さんが「是非販売して欲しい」と思っている書店に対する配慮ゼロ。思ってないよ、全然思ってないよ、これじゃあ。

問い合わせのメールアドレス調べる事できるならついでにHPのニュースとか見てみるとか、せめて自社のHPに記載のあるイベント履歴を調べるくらいしよ?2月以降とかコロナの関係もあってイベントなんて減ってたでしょ?ログたどるだけでもそこまで遡らないで済むんじゃないの?

・ご注文、販促は?
 肝心の注文に関しても「うちじゃない、取次へ」とにべも無い。それどころか販促用のPOPとかサイン本とかの提案もなし。
著者も「本屋さんを盛り上げる手伝いができたら協力したい」と書いているのにそこを補強せず、それどころか「やはりこれ社交辞令ね。」となる簡潔さ。
「イベントなどはまだしにくい時期ではありますが、販促に何かできる事があればお気軽ご相談ください」
とか書けばまた違ったのに。
この会社の営業の仕事は「本を売る」ではないのかな?

・なんで普通の新刊案内しなかったの?
 やり取りをした事ある出版社さんからは新刊の案内をメールでもらう事があります。普通に「来月の新刊です!」みたいな案内です。
そういう感じに「著者から本屋さんへのエールのメッセージももらいました」とか書けば「ご注文も取次に。」で普通に案内できたのではと思います。
なのに、「著者が特に希望した」と言うよくわからない書き振り。

店主は存じ上げなかったのですが著者の方を調べてみると職業柄よく顔を出されているだけあって綺麗な方でした。そのせいかメールには彼女がメッセージを手に持ち、後ろには出版社のロゴが見えるような写真も添付されていました。
2月にうちでイベントした書籍は著者が男性だからかそんな写真一切なかったと思うのですが、「綺麗な女性が書いているから外見もアピールポイントにしよう!」という発想がどうにも昭和で正直気持ち悪いなと思いました。
綺麗な女性に「ぜひ置いて」って言われたらみんな置きたくなりますよね!とでも思ったのでしょうか?

流石に他の出版社さんでこういうのはみた事ないのですが、でもうち規模には別に営業がそもそも来ないなんてザラなので何がスタンダートなのかは正直よくわかりません(不思議なことに人がたくさんいる大手より、1人とかでやられている出版社さんとかの方が訪問してくださる事が多い気がします)。

この出版社の本は個人的に好きなものが多いのですが、ここの営業は好きじゃないです。「営業は会社の顔」って言いますけど、この会社の2名の営業のおかげであまり積極的にこの会社の本を置きたくないなと思ってます。

なお著者の方はどうやら店主と同じ高校出身みたいなので応援してますので、頑張ってください。

今日のBGM 『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。』(サンボマスター